コラム
column
暴君に対し、果たすべき司法の役割
1 暴挙の連発
アメリカのトランプ大統領の暴挙は、いまや際限なく拡大されつつある状況である。関税に始まり、ウクライナ大統領に対する非礼な対応、新年明けてからのベネズエラへの一方的武力攻撃とグリーンランドへの領土要求と、暴挙とどまることなし。私が物心ついてからの知見としては、これほどの非道を公然と行ったり表明したりする大国の指導者を、他に知らない。これらの暴挙に対する批判・論評は、その道の専門家から多数の論稿が出されており、政治や経済の専門家でない私が、さらに論評するべきでないと思われる。そこで、この点は、彼のことを「暴君」と表現をするにとどめおき、私の総括評としておきたい。さらに、他者の受領したノーベル賞の記念メダルを、喜々として受け取る姿を見れば、この人は、通常人が有すべき人間的な正常感覚を、もはや失っているのでないかと思われることだけを指摘しておきたい。
2「法の支配」への挑戦
さて、トランプ氏は、「私には国際法など必要がない。私を止め得るのは、私の心しかない」とまで述べたと報道されている。この発言は、法律家の一人として、とうてい許容できないものであった。およそ現時における社会を治めるのは法であり、いかなる権力も人も、法の上に自己を立たせることは許されない。これが「法の支配」の理念である。上述の発言は、これを公然と否定し、彼自身が法だと宣言するに等しいものである。このようなことは、人間社会では、王としての権限と捉えられ、少なくとも民主国家では、もはや存在し得ないものと考えられる。にもかかわらず、公然と上述のような発言を発信することに対し、法律家としては、許し難い思いにかられるのである。あのような発言を、大国の大統領という責任ある立場にありながら行うのは、人類の歩んできた歴史や、その歴史が産み出した教訓としての「三権分立」や「法の支配」といった理念に対し、トランプ氏の無理解または無知がもたらしたものと指摘せざるを得ない。
3 三権の一角である司法への期待
私は、本コラム欄においてトランプ関連の第一稿(2025.3.5発信「自由主義国家陣営の代表ですか」トランプ大統領へのゼレンスキー大統領の問いかけ)として大統領制の問題点、第二稿(2025.6.3発信「アメリカよ、何処へ行く」-トランプ問題の第2信-)として司法の役割につき述べさせてもらっている。
前項記載のような人類の歴史が築き上げた教訓と叡智に対する無理解・無知な暴君を制止するには、(アメリカの中間選挙による国民の審判と共に)司法の力が必要不可欠である。トランプ氏の暴挙に対し、アメリカの勇気ある裁判官の何名かは、公然と批判の意見表明をしていることが報じられている。私も法律家の一人として、このような暴君が権力を握る体制下に自分が置かれた際、どのように行動するべきかを考える中で、このような勇気ある法律家に感銘を受けている。
そして、地裁・高裁では、トランプ氏の行いに「ノー」の判断を示した判決が多数に報じられている。これらの判決に対し、近々にも判決が予定されている関税に関する分を第一歩として、最高裁が順次に判断を下すことが予定されている。アメリカの最高裁判所は、その裁判官の任命の特性から、きわめて政治色が強いもののようである。しかし、それでも彼ら最高裁の裁判官が、法律家としての矜持は保持していることを信じたい。今や、最高裁が、法こそが支配者であることを暴君に対し明確に示し、三権分立が存続していることを世界に宣言することに期待をしたいと願っている。
4 民主国家としての立直りを期待
トランプ氏は暴挙を繰り返すのみか、この暴挙に立ち向かったアメリカ国内の勇気ある人々に対し、謂われなき弾圧や妨害を試みている。それは、自分に批判的な行動をした検察官や裁判官に対し、無能呼ばわりしたり、あろうことか訴追を指示したりなどをしているのである。現時では、金利の設定で自分の意に沿う行動をしない連邦準備制度理事会(FRB)のパウエル議長に対しても、訴追の試みまで開始している。
暴挙に立ち向かおうとする人々に対し、こうした弾圧や妨害が起こっている状況は、世界にいまだ存在し続けている専制国家の姿とすら類似するものである。このような容認し難い民主主義の根本への攻撃は、アメリカが民主国家であるかどうかの選別の瀬戸際にあると言える状況である。これらの勇気ある人々の活動が守られるよう、アメリカ国内の人々の奮起を期待したい。そして、そのような奮起がアメリカ国民の多数の行動となり、アメリカが民主国家へと立直ることを願うものである。